お前とのキスはいつも鉄の味がする
いつからという疑問など知らない。俺はいつもの通りだ。数年前から、ずっとこの通りいつ来るかもわからぬ依頼を待っている。どんな依頼だという疑問など知らない。俺は確かにそれをこなして来た。無理をして答えるならば、八百以上の仕事がこの世界にはあり、おれはそれ全てをやっている。そんな職種の量をこなしても、こんな狭苦しい三畳一間にむさ苦しく男一人だ。こんな惨状を見ればもう少し政治家達は真面目にやってくれるだろう。何せ同じ三畳一間の「神田川」だろうが、俺とは全く無縁だ。女もいない。愛も無い。依頼も無い。あるのは次の晴れの日に、と先延ばしの予定をたてていくうちに積もった塵の如く完璧に山となった洗濯物ぐらいだ。あとは乾パンか。そして窓から見えるのは神田川ではない。迷惑甚だしい私鉄の線路である。真夜中でも普通に警笛を鳴らす連中の運転する電車など、信用していいものか謎だ。そして今日も戸を叩くのは、依頼主でもない。女でもない―人権を尊重していってやれば女なのだろうが、尊重する人権もアイツは持ち合わせていない。無性生物とでも言っておこう、そんな奴だ。「よッス」「何しに来た」「哀れなチミを見て、ほくそえみに」「単細胞生物が」「人の不幸は蜜の味、ってね」「ああ、だからそんなにブットイのか」「君の不幸はカロリーが高いんだ」「ああ、俺のは崇高で貴い不幸だろう」「漫画の読み過ぎだって、万屋とか。銀さんって呼ぶよ」「便利屋と呼べ、便利屋と」「うわあ、しょぼいよ銀さん」「うるさい」ああ、癖が出た。言い返せる言葉が無くなれば、俺はうるさいと言ってしまう。負けたような気がして、現実を見詰めない科学者が発表した生物学によれば女という性別をもった目の前の無性生物を睨んだ。薄いソバカスはいつもの通りだ。「ソバカスだってお気に入り」とか言っているが、キャンディーキャンディーか。絶対にあれは気にしている証拠だが、奴も俺の「うるさい」癖を知っている。ここは一先ず引いてやる事としよう。しかし奴との縁は腐れ縁どころか、腐りすぎて納豆のねばねばのように切りにくい縁でべとべと気持ち悪い。縁を切ろうにも、俺は奴に黙って引っ越す宛ても金もないし、これが日常だ。半ば以上諦めている部分がある。実質の害はないと思ってやり過ごすのが一番だ。「そだ、依頼持ってきてあげたんだよ〜」「コミケ同伴とかだったらキレるぞ」「大丈夫、まだ時期じゃないよ」「……で、なんなんだよ」まともに風呂に入っていない頭を掻いた。と、歩み寄ってきた奴が足を滑らせて、道連れに俺までいきなり胸倉を掴まれる。バランスを崩して、思い切り奴にぶつかる。まがいなりにも、本当に辛苦をなめたことがあるのかと疑いたくなるような科学者が発表した生物学によれば女である奴だ。男という性をなにかの手違いで手に入れた俺は、その尊厳が傷つかぬように庇ってやる。鉄がむき出しのボロアパートに頭を打ち付けたら、いくら奴でも痛みは感じるだろう。これは最低限のマナーというやつだ。しかし、唇が切れた。前歯は折れていない。鉄、いや簡潔にいえば血の味が口に広がる。口を奴の―そう、あろう事か口に、世俗一般に言われるキスをする場所に、打ち付けてしまったのだ。奴も口が切れている。唇から血が垂れていた。そんな口でにんまりと、奴はほくそえんだ。大して可愛くもない。ソバカスはきっと一生消えない顔で。「これが本当の事故ちゅーという……」「悪い冗談だ、しかも面白くない」「君は私になにを求めているのだよ……」「お前に求めているものだと?」イテテテ、と唇を押さえる奴を立たせてやりながら、俺は言い放ってやった。「今度は鉄の味がしないキスを頼む」俺は、打ち所が悪かったのかそんなことを言っていた。奴も打ち所が悪かったらしくて、その言葉を聞いて鼻血を出していた。ああ、この依頼は一生叶いそうに無い。
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