花を待とう
ずっと何色とも区別のつかぬ世界を旅していた。
モノクロームの世界の中で、彼―いや彼女だったか―の持っていた、あの乙女の頬のように赤い林檎だけが唯一光り、生き生きとそこに存在していた。自らを運ぶ車の馬でさえ、背に生えた灰色の毛で眼は見えず、それでも前だけは見えているらしく、虚ろに足を歩めているだけだった。身悶えすると、彼―いや彼女だったか、しかしそれも、もうどうでもいい。兎に角「彼」の億劫そうな、まだ春の眠りから覚めやらぬ優しい体温が滲みてくるようだった。動脈が浮き出たやせ細った腕をだらりと垂らさせて、烏の濡れ羽色の髪の間から、熱のないこけた頬が見えていた。そんな時、やはり彼の掌の中の林檎だけが、そこに存在していた。自分はそんな林檎にか、それともその主である彼にか、兎に角どちらかへ思慕を向けて、彼の膝に横たわっているのだ。淡い悲しさなど感じさせぬ、彼の吐息を聴き、感じ、そして彼と同じ場所へ船を漕ぎ出す。彼の見る夢はなんだろうか、林檎のたわわに生っている木だろうか。それとも原色のサーカスのような世界だろうか。それとも自分の白黒の世界だろうか。どこへでも構わぬ。彼とその掌の林檎と一緒ならば、どこへでも行ける。そう思いすぎたか、自分の意識ははっきりとしてきて、いつの間にか夢の世界と現実が混ざり合った。彼はいた。そこにいた。ひどい町の喧騒の中、サーカスのような原色の中、林檎ではない実の生った不気味な木の羅列の中、そしていつもと同じ彼の白黒の世界を引き連れて。彼がボロボロの何色とも区別のつかぬ袖の服から白く細い指を出し、横を指した。そこには林檎と花があった。額にポツリと点のある、水子地蔵があった。それには真っ赤な前掛けがしてあった。なにやら文字も書いてあった。人の名前らしいそれは、私には読めぬ。兎に角灰色の林檎の実った木からは色彩が奪われて、どうやら水子地蔵の前掛けに吸い取られているようだった。水子地蔵の足元に花があった。雑草のように茎が長く、彼のようにみすぼらしくも美しかった。桜色のそれは、一厘のコスモスだった。「花を待とう」と彼が言ったようだった。性別の区別がつかぬ声で、いつものように囁きかけてきた。見惚れるように聞き惚れて、自分はいつの間にか遠くへ行ってしまった水子の地蔵を見詰めた。私への祈りを捧げる碑のように、それは私を遠くから見ていた。冷たいものが頬に触れた。私は彼の世界に戻っていた。彼の手には白黒で、雑草と区別のつかぬコスモスが握られていた。冷たいものは花を持っていないもう片方の彼の手だった。「花を待とう。君がまた生まれる機会が来れば花が迎えに来てくれる」そう彼は熱のない頬を動かして、愛のある唇で呟いた。自分を撫でてくれる指は、冷たい。「自分とは名の違う、水のように流れた自分のあの碑を見て咽び泣く時が来る。花を、待とう」幼子のように自分はそれを聞き入れるように、また彼の膝にうずくまる。花を、待つ。そして散ればあの赤い果実のように、彼の手によって引き剥がされ、彼の元に還る。どんな果実でも、彼は引き剥がしに訪れる。それまで自分は何もかもを忘れていればいい。こんなに居心地のいい場所を覚えていたら、きっと私は自ら彼に帰す事を望んでしまう。今は彼の言うとおり、花を待つ。そうすれば何も怖いことなぞないのだ。全て、還る所は同じなのだ。
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