サアアアアアと心地よい音がする。
ヒタヒタと歩み寄る音に振り返る。
ジワジワと、そして瞬間的にザッとくるコンクリートの熱に皆、飛び上がった。
空は、クラクラ輝いていた。
あたたかい水
そう、これは中二の夏。
今年の夏休みは「中学最後の夏だ」ぐらいの気概である。なにせよ、来年はすぐに高校受験だ。お楽しみなど楽しみにできるものでもない。だから出来る限りこの夏を有意義に、と静弥は考えていた。
今は丁度プール掃除をさせられているところである。今年は予想外にも、早く夏が来た。だが炎天下の中、水のないプールを眺めても汗があふれるだけで、なんの得もしない。グラウンドでの運動にも嫌気が差したところであるから、早くプールを開いて欲しいと思うのは静弥だけではない。だが、それとプール掃除をしっかりやることとは話が別だと皆口を揃えて言う。ここは上辺だけ優等生― つまり成績はいいが、性格に少々難有の人物である静弥も賛成する所である。小学校でも生徒のそういう扱いはある。前年度までは卒業制作にタイムカプセルだの自分の肖像の彫刻だのをやらせていたというのに、古い学校だった為、そういったものの置き場所がなくなって、とうとう自分達の年は体育館掃除が卒業記念だった。「学校に貢献するなんて素晴らしい」というのが大人の言い分だ。ああ、確かに素晴らしいだろうさ、と静弥は冷たい眼で見ていた。
大人ってなんであんなにも勝手なのだろう。ああ、ウザったい。なんで、小さい頃あんな奴らに憧れていたんだか。そう思いながら、静弥はブラシを壁に立てかけて、小学校よりは小さいが、水深のあるプールを見詰めた。女子が虫の死体で騒いでいる。静弥もそんなに蝉を鷲づかみできるような活発な少年ではないため、なんとなくわかるが、あの奇声は止めてもらいたい。と、
「静弥ー」
人好きのする笑顔を振りまいて― それでも自分から言わせれば不細工だ ―、幼馴染のヱキがホースで水をぶっかけてきた。まだ生ぬるいそれはだんだんに冷たさをまして、静弥の掃除するために制服から着替えていたTシャツをぬらした。
「っ、死ねよ、馬鹿!」
思わず子供のような罵声が飛び出ていた。静弥自身、内心驚いていたが、ヱキに悟られたくない為、普通の顔をして睨みつけていた。
それでもヱキは悪びれもせず、くるくると踊るように面白がっている。アハハ、という軽快なピンポン玉が弾むような笑い声を立てて、友達の所へ走って行ってしまった。
はっきり言ってあの陽気さと明るさは人間国宝並だと思う。褒めているわけではない。世界全部を敵だと考えるカチカチの静弥のような石人間にとって、ああいう人間は冷ややかな視線を送って蔑むべき対象だった。しかし、彼女の世界観を見た時、静弥はハッとした。「悪意なんて存在しないよ」という子供のような幼稚な意見を彼女は信じ込んでいて、それを裏付けするキッチリとした理論まで、御丁寧に用意していたのだ。彼女が馬鹿でないことは知っていたが、少し静弥は自信をなくしたところであった。アヤフヤな意見― 存在意義だの、世界の善悪だの ―に論点が行くと、その持論は自分を代表するような物にまでなってくる。だから自分の論理を覆されたり、「そうかも」と少しでも思ってしまったりすると、人間は― 特に子供なんかは自分の存在まで否定され、自分からも見放されたような気がする。すくなくとも静弥はそれに当てはまっていた。
静弥は立ちながら、ヱキの走り去っていった方を見詰めた。ふざけ戯れながらヱキが友人と水を掛け合っている。ヱキの形貌は、母親似の女性的な顔立ちの静弥と正反対に、平凡で、どちらかといえば悪かった。左頬には生まれつきの大きなシミのようなものが首を這うようにあった。生まれつき中性的な体で、性ホルモンのバランスが悪く、未だに少年のような体つきだった。子宮にも生まれつきの問題があるらしく、なにかあれば即手術して切除で、子供など望まないほうがいいと医者に言われたそうだ。 そう、人間の世界というものは最初から不平等だ。彼女もそれは否定しなかったが、「ヱキは普通の子の生活を知らないから、比べられないよ」と遠回しに「嫌と思ったことはない」と言った。まだ抜けない一人称が自分の名前という幼稚な癖があっても、かなりその声は大人びていた。― そうだ、ヱキは声だけは綺麗だった。それは顔に似合わず極平凡な声をしている静弥も認める所である。近所の小規模なキリスト教会で聖歌隊としてのヱキの声を幼い頃、両親に手を引かれ嫌々聞きに行ったことを覚えている。両親同士の付き合いがあるからこその、ヱキとの腐れ縁だった。
「真面目にやりなよ皆ー」
良い子な女子群がブラシをもっていっているが、皆それに従う気はないようだ。あまりそういういい子ちゃんぶった― たぶん本当にいい子なのだろう。別にドウデモイイが ―女に好感の持てない静弥は冷やかな目でそれを内心笑っていたりもする。前述にもあるように、成績は良くとも中身はよくないという、いい子なのか悪い子なのか非常に見分けのつかない子供が静弥だった。
「静弥君、言ってやってよー」
変な語尾延ばしでお鉢が形だけの学級委員・静弥に回ってきた。他力本願かよ、と思いながら無視しようかどうしようか迷う。
「静弥ー、こっちきてー」
不細工な笑顔で手をふるヱキが静弥を呼んでいる。周りにはさっきまでいた女子がいないので、今だとばかりにヱキの方へ歩いていく。女子の変な視線が背中に痛い。だが大声で注意をさせようとされるよりいい。……ただ、ヱキの後ろ手に持つものが蝉の死体でないことを祈る。
プールサイドのコンクリートの熱と皆が撒いた水が混ざって生暖かい。
あたたかい水が心地よくて、しばらくは真面目に働けそうもなかった。
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